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〻 English

今日が終わると明日が来るよ

やとうはるか

場所:APどのう
日程:2025年4月5日(土)ー4/28(月)
土日月のみオープン
時間:11:00〜18:00

手持ちの服が大量にあって散らかっている。みんな買う時には理由があって自分が選んだ服なのに、なぜか着たい服が見つからないし、なにがお気に入りかわからなくなってしまった。
なんで大切にできないんだろう、という気持ちはあるのに、もっと大切にできるものを新たに求めてしまう気持ちもわく。きっとその大切にできそうなものを得ても、豊かさに到達できない底なしの不足感は解消されないだろう。

そもそも本当に不足しているのだろうか。

やとうはるかの作品は、日々の生活から得られる身体の動きが活かされているように見える。犬の散歩や子どもとの生活、農作業の手つきなどが身体を形作り、そのような経験をした者としての描画が可能となる。それらの動きと描く動きは全然違うように見えても、どこかで繋がっているように感じさせる。

子どもの世話が忙しい時は色数が絞られたり、自分の時間に余裕が持てるようになった時は一気に色数が増えたり、生活が自然と作品に影響してしまうほど、同じ軸の上にあるがゆえに動きもリンクしているのだろうと思う。

やとうはるかの絵にはいくつかの時間が重なり合って見えてくる。その瞬間だけを捉えているのではなく、群像として描かれた人々が各々の時間を持っていたり、毎日繰り返される行動が積み重なって1つの場面となっている。彼女の演劇での経験がそうした画面の時間感覚を生み出しているのだろう。

「今あるものを使い切る」という話を彼女とした。使えるものは永く使うし、無駄にしない。新しいものがなくとも今あるものだけで十分足りる。
ものだけではなく、経験に対してもそのような姿勢を感じさせる。いままでの経験や行為を彼女は大切にし、使い続けている。
生きている中で感じる、なにかが足りないという得体の知れない不足感は、彼女の作品や生活観をヒントにすることで解消されるかもしれない。

幾山隆生



ステートメント


 子供の頃から絵を描くのが好きだった。
 小学4年生の頃が絵を描く楽しさのピークだった。ともかちゃんという子と休み時間が来る度に机を向かい合わせて自由帳を広げて絵を描いた。大半の子が外でドッチボールをしたり、ケイドロをしたりする中、ちょっと静かになった教室でともかちゃんと絵を描くのはすごく楽しかった。女の子の絵や、自由帳の中に公園を描いてその公園で遊ぶ猫やウサギの絵だ。女の子のファッション画もよく描いた。家に帰ってからも広告の裏に鉛筆で絵を描いた。夜ご飯やお風呂の後に自分の部屋で1人で絵を描くのも楽しみだった。その時描いていた女の子は特定のキャラクターと言うより、絵の中の登場人物、自分、友達を、今描いているのと同じようなアニメっぽい絵柄で描いていた。ともかちゃんはアニメ風の絵が上手だったが、私は一向に上手にならず、同じような絵柄で女の子を描き続けていた。

 上手くなることは特に目標とせず、現状の女の子の描き方で満足していた。それがとにかく楽しかった。

 物心ついた頃から「ねんね」という名前の布を触っていた。ねんねを触っている時、舌は上顎にぎゅうっとついていて、それは赤ちゃんが母乳を吸っている舌の使い方と同じだ。安心している状態。ねんねはある時ボロボロになり、もう使える状態ではなくなった。ねんねの代わりにぽち子と言う名前の犬のぬいぐるみを触るようになった。それは35歳になった今でも続く習慣だ。(ぽち子もまた触り続けてボロボロになってしまうので、同じぬいぐるみが家には何体もある。)

 絵を描いているときは舌が上顎にぎゅうっと付いていてぽち子を触っている時と同じような状態の時も多い。安心しきっているからずっと絵を描けたのかもしれない。  安心した状態で絵を描けたのは、3、4年生の頃がピークで、高学年になるにつれて、学校で絵を描く時間は少なくなっていった。ともかちゃんとクラスは分かれて、絵を描くのが好きと言う友達が見つからなかったことも理由の一つだ。家では引き続き描いていた。

 中学生になると絵を描く時間はさらに減り、勉強や部活が占める時間が増えていった。  テストで高得点を取ることが楽しくなり勉強にはまっていった。なぜ勉強するかの理由は特に考えず、問題の解き方を頭に記憶して、それに沿って出題を解くというルーティンにはまっていた。中学時代はとにかく勉強をしていた。
そんな中学時代にも美術の思い出はあり、山本裕司先生(通称:ゆうじ君。野外制作プロジェクトを行った「天地耕作」のメンバー。)の美術の授業で、土方巽と思われる人が、冬の雪がどこまでも積もった田んぼで、ふんどし一丁とかで一人踊り狂うビデオを見せられた。この日、私の心に何か種が蒔かれたように思う。  静岡県では頭がいいとされる高校へ進学した。が、この高校時代はなかなか辛いものだった。まず、両親の別居に伴う引っ越し。住み慣れたのほほんとした田舎町を出て母と2人で市街地に住むようになった。  気持ちは荒み不安定で勉強のやる気もなくなり、部活も全然頑張れず、もう嫌だなぁと思っていた。荒んでいたので仲の良い友達もできなかった。

 そういう自分のはけ口になっていたのもまた絵だった。今の絵柄とは違う感じで、自分の感情などを絵にして吐き出していた。

 当時の自分の夢は栄養士になることだった。私にとって栄養士といえば、給食に関わる人で、給食と言うのは、平和の象徴、安心の象徴。安心してホヤホヤしたところで働いていきたいと思っていたので、栄養士になりたかった。

 だが、栄養士になるには化学を勉強しないといけないかった。化学のテストが2点だった。私は栄養士の夢を諦めた。こりゃ無理だと思った。

 じゃあ何になろうかなぁと考えていると、絵は好きだなということになって、絵だったらずっと描いていられるかもと思って美大を受験しようと考えた。

 美大を受験しようと決めてからは勉強しなきゃと言う気持ちがなくなり、授業中は安部公房や寺山修司の本や松本大洋の漫画などを読みふけっていた。(教科書に安部公房の箱男という話が載っていて、そこから派生して安部公房をいろいろ読み始め、さらにそこから派生して寺山修司などの方向性に飛んでいった。自分の荒んだ気持ちに合っていて読んでいてすごく楽しかった。)

 受験には落ちて浪人することになった。池袋にあるすいどーばた美術学院へ通うことになった。

 そこでは、いろんな画風の絵を試した。結構気合を入れて毎日頑張っていた。そこでちょっと怖い感じのアニメっぽい感じの絵を描く人がいた。いいなぁと思って私も描いてみることにした。そしたら水を得た魚みたいに描くのが簡単で、描きたい内容はどんどん出てくるし、すごく自分に合っているなと思った。全自動みたいに絵が出てくる子どもの頃の自分を思い出して、そうだよなぁ私こういう絵描いてたもんなぁと納得する。アニメっぽいような絵柄こそが、自分にとっての自然体の形なんだと思った。

 そんな絵柄で受験して、藝大は落ちて多摩美へ行くことになった
 多摩美でも、今のような女の子が出てくるような絵を描いていた。内容としては、自分の感情を消化するようなものが多く、自分の中で引き続き問題になっていた家族に対する葛藤が主な制作の動機であった。

 怖いという感情を表したくて暗い目の女の子を描いた。私にとっての怖さとは、夜の温水プールの天井付近に付いている大きな換気口の丸くて暗い空洞だった。

 小学生の頃、よく夜の温水プールに連れて行ってもらっていた。そこで見た換気口がすごく怖かった。古い温水プールで室内の角の方は照明が行き届かずに少し暗くなっているのも怖かった。その雰囲気を意識して、空洞のような目を描いた。この目の描き方は、今も目のバリエーションの1つとして続いている。

 大学3年生の終わりに寺山修司が主催していた劇団、天井桟敷を引き継ぐ劇団、演劇実験室◎万有引力の奴婢訓と言う舞台のオーディションを受けた。舞台に出たいと言うよりかは、演劇実験室◎万有引力の劇が好きだったので、どんなことをやっているのか見てみたかったからだ。

 オーディションには受かり出演することになった。

 舞台上では、役者や小道具が入れ替わって画面を構成していて、また奴婢訓という舞台のセリフも一本筋が通ったお話と言うよりかはざっくばらんな、詩的な言葉を配置していて、1つの舞台が作られるというようなものだった。

 1つの道のように物事が関係している訳ではなくて、無関係に見えるものが配置されていくことによって1つの世界が構成されていくという状況がものすごく面白かったので、自分の絵にもそれを取り入れるようになった。  紙のコラージュ的な作品から始まり、油絵の中でも人物の上に無関係な人物をわざと配置したり、遠景に大きな人物を置いて、近景に小さい人物を配置したり、窓を描いて違う世界と続けてみたり。今でもこの描き方は引き続き行っている。

 そういう描き方を始めたら、必然的に群像の絵が増えていった。
 が、今度は画面の構成が群像に甘んじている気がしてきた。群像で混沌を求めた末に、1人の人物というシンプルな存在の中にこそ無限の(内面的な)混沌が実はあるのではと考えて、シンプルな絵柄で絵を構成するようになるが、1人の人物という感じが表面的に強すぎて何か違うなと感じ、また群像の絵に戻ってきた。

 大学4年生の時に金沢で個展をしたときに、ギャラリーのオーナーから焼き物やってみればと言われ、焼き物を始める。粘土は柔らかくて、自分でもできそうかもと思ったことも始めた理由の1つだ。

 当時は多摩美近くにあった陶工房聖怜の木下怜子先生にお世話になり、焼き物を始めた。
 粘土の質感は単純に面白く、あっという間に作るのに夢中になった。
 夢中になったら、工房に足しげく通うようになった。
 工房は火水金土曜日に開いていて、土曜日を中心にどのクラスにもちょくちょく顔を出した。
 木下先生は自分の畑でとれた野菜を使っておいしいお昼ご飯を作ってくれたり、おやつを作ってくれたり、通常回のお楽しみはもちろんのこと、川でのマス釣り、餅つき、尾瀬旅行、焼き物旅行(笠間、常滑、多治見など)、乗鞍旅行、スキーなどのスペシャルなお楽しみもしょっちゅう開催、工房の帰りに、温泉に入りに行ったりと、楽しい思い出がとにかくたくさんある。荒んでいた心も元気になった。

 そのうち工房は、多摩美の近くから相模原市緑区にある長竹という場所に移動になった。

 バスも少なく車以外で辿り着くのは難しい場所だったので、先生の車に毎度乗せていってもらった。しかし、集合時間は朝の5時か6時。めちゃくちゃ早い。とりあえず早起きをして着替えを済ませたら先生を待ち、先生の車に乗って、いろんなことを話しながら工房に着く。冬の工房では、まず薪ストーブに火を入れる。先生はあっという間に朝ご飯を用意してくれる。作業場とは別の掘りごたつのある部屋で先生と朝ごはんを食べる。食べたら制作に入る。

 陶工房聖怜には、年に1度の窯焚きがある。山梨県明野町で、穴窯で備前焼を焼くのだ。窯詰めから焚き終わりまでは約1週間。3人から10人程度の人が出入りしながら生活を共にして窯を焚く。
 窯を温めて作品も温まっていって、高温になっていって作品が光出していく。この窯炊きは今も続いていて、私は10年以上参加している。

 そんなこんなで大学院まで過ごした後、東京都の特別支援学校の美術教員として就職した。
地元静岡県にねむの木学園と言う障がいがある人の美術で有名なところがあって、昔から障がいのある人の絵に心を動かされていた事と、子どもの飾らないところが好きなので、教員になった。

 教員になると忙しさから制作ができなくなっていた。週に一度の陶芸教室でその場で何とか作ると言う感じで、他の時間を制作に充てる事はできなくなっていた。教員の生活はとにかく多忙で、子どもたちといる時間は楽しかったが、他の時間が長くて、私にはあまり向いていなかった。美術の授業も何かと制約があり、子どもたちと一緒にやりたいと考える授業も実現が難しかったりした。2年ほど勤めて教員はすぐに辞めてしまった。
今、めとてアートクラブという小学生対象のアートクラブを主催して少人数で活動していて、子ども達と活動するということは続いている。木下先生の姿勢や楽しい工房運営の仕方からも影響を受けている。

 予備校時代から付き合っていたまーしーと結婚して、子供ができると里帰り出産のついでに、実家のある静岡県へ引っ越した。
 静岡県は暖かくのんびりしている。商人の気質があって、音楽は盛んだが、美術の分野は活発ではない地域だと思う。お祭りが何かと多い地域だ。

 子どもとの生活は、生活がまさしく生活の中心にある。起きて着替えてご飯を食べて散歩をして食べて昼寝をして本を読んで散歩をして食べて、お風呂に入って本を読んで寝る。小さな子どもとの生活には散歩という名の何もしない時間がたくさんある。たった150メートル歩くだけで40分かかる。子供は、とにかく可愛く、この子のために何かしてやろうという気持ちや、いろいろな物事や現実のことを伝えていきたいと言う気持ちがあった。
毎日のように子どもと図書館へ行った。図書館は静かで明るくて昔から大好きな場所だ。いろんな情報が読めるから雑誌が好きで、図書館にあった「母の友」や「天然生活」は好きで毎号見た。「天然生活」の中に早川ユミさんの「くらしがしごと しごとがくらし」という連載があって、読むごとに、自分で暮らしをつくっていく生き方に憧れるようになった。特に食べ物に関して、自分でやれば土〜種〜収穫〜また土まで、一連の流れを自分の目で見られるのがいいなと思った。
早川ユミさんの本から派生して、自然と共にある暮らしや自給自足に関する本をたくさん読んで憧れて、そんな流れで、自分で暮らしをつくっていってみたいと思うようになった。

 はじめに庭に小さな畑を耕した。プチトマトがたくさんできた。芽が出たとか、苗が大きくなってきたとかは、子どもは関心がなかったが、プチトマトが実るとそれを取るのを毎日楽しそうにやっていた。子どもは外にいれば機嫌が良かったので、畑と子育ての相性が良かった。ちなみに長男は幼い頃は絵を描くことに熱意はあまりなく、クレヨンや絵の具を渡しても2分位でやめて、玉転がしやブロックで遊んでいた。この頃、私もほとんど絵は描かなかった。教員時代に描いていなかった延長線上にあった事と、子どもにしょっちゅう呼び出されること、昼寝をしている子どもがいつ起きるか分からないと言う第一子のひやひや感が相まって、絵を描こうと思わなかった。明野へもっていく備前焼だけは何とか少し作っていた。

 少しずつ畑に力が入っていった。スイカとか、にんじんとか、サツマイモとか、作っておいしくて、のめり込んでいった。子どもに呼ばれても、制作と違ってすぐに手を止められるのが畑作業の良い所だ。
 のほほんと浜松で暮らしていたが、のほほんとしすぎてしまう違和感を感じて引っ越すことにした。 京都の福知山か神奈川県の山北町で悩んで、山北町に引っ越すことにした。まーしーの知り合いの山田さんと言う面白い人がいるらしい。そこで暮らしてみたらどうなるかなということで山北町になった。

 山北町では家が見つからず、結局隣の南足柄市に現在住んでいる。
 畑と田んぼを借りて、有機栽培でやりだした。
 畑は、不耕起栽培で鶏糞と米ぬかと草マルチだけで育てた。最初はろくな野菜が育たなかったが、3年目になると美しい野菜が育って、猛暑の中でもうちの畑は元気と言う具合にまで調子よくできた。野菜の自給はこの時達成したが、畑を返さなくてはならなくなり、今はやっていない。そのおかげで、制作に充てる時間が増えて、ようやく、ここ数年また制作しだした。

 田んぼは今は3回目になる小麦の栽培中です。この一帯は有機栽培をしている人が偶然なのか集まっていて、農薬の飛散もない。

(なんでこんなに農作業に力を入れるようになったかの補足)

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①浪人時代に舞踏の合宿に参加した。玄米菜食の生活を共にして舞踏をやった。百姓の腰を落とした姿勢がその舞踏には必要だった。
また、演劇実験室◎万有引力の奴婢訓でも、百姓という存在がポイントだった。でも、ステージの上で架空の百姓になって過ごす人を見て違和感があった。百姓のイメージのもとで百姓を演じているけど、やけに嘘っぽい感じがしてしまう(演者の問題ではなく)。百姓を演じるとか取り入れるということが妙に嘘っぽく私の中で目立ってしまって、百姓を実際にやって、実感をもつ必要があると思っていた。


②木下先生の畑仕事からの影響。

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 それで、何年か農作業をやってみて、自分の体の筋肉や動きに変化があったり、皺が増えてごわごわした手になったり、百姓ってこんなものなのかなっていうイメージは持つことができた。
 ハードだった。
 今日食べたものが、7年後の自分の体を作ると本で読んだけど、畑仕事が終わるとヘトヘトで、帰り道のコンビニでアイスを買うこともよくあった。
 出所が分かる食べ物で自分の体を作りたいと思っているのに、畑で食べ物を作ったあとにアイスを食べなきゃやってられない。エネルギー消費を抑えたいと思っているのに、ガソリン車で畑行っているな。畑に撒いている鶏糞、重たいのにわざわざ遠くから来ているだろうな。等々、諸々の矛盾を感じていました。

 で、山北に住んでいる山田健太さんは、有機栽培で、米や大豆や麦などを育てたり、鶏やヤギを飼ったり、山作りをしたり、百姓になるべく暮らしているのですが、その山田さんが時々お昼ご飯にインスタントラーメンとかインスタントカレーを食べているのを見て、はっとした。

 こんなに自分の手で生きていこうとしている人が、潔くこういった食べ物をあっけらかんと食べている。だけど、同時に食べ物の問題とかごみの事も私以上に知っていて、そういうものに対する暮らしの中での工夫や姿勢も私以上にもっている。

 今の時代の現実の世界の中では、理想郷のように自然のものだけで生活を構成するなんて事は、かえって不自然なところもあって、かえってエネルギーも無駄に消費することになるよなと思った。

 私はこれまで普通にカップラーメンとか食べてきた。畑に力を入れていた2、 3年は、できるだけ自然の食べ物を選んで食べていたけど、カップラーメンとか食べてきた現実だって現実だと思った。カップラーメンも食べ物だ。だけど、お金を出してスーパーでカップラーメンを買って食べるのは寂しさもある。食べ物をつくる工程は楽しくて喜びがあって大変さもあると言うのを私は畑生活から感じている。自分で食べ物をつくることは、間違いなく心を元気にしてくれるし、自分の人生を生きていると感じられる。

 あなたは何でポテトチップス食べて、ビール飲んでる人を絵に描かないの?とまーしーに言われた。そんなの嫌だよと私は言った。周りの自然な人たちに食べてることを知られたくなかったし、自分が理想とする生き方ともずれるようだったから絵に描くのは嫌だよと言った。

 でも、その言葉は私の中で結構引っかかっていて、一年後位にそういう現実のものも絵の中に描くようになった。いざ描いてみたら、浪人時代に久しぶりに女の子を描いた時みたいに、水を得た魚みたいに絵が楽しくなってきた。

 絵が楽しくなったタイミングを振り返ると、自分の中で自分への嘘がなくなったタイミングじゃないかなと思う。
ドッチボールをするより、教室の中で絵を描いていたい
渋い写実を書くより、女の子を描いていたい
爽やかな女の子だけの世界に、現実も入れたい


 現実と言ったって、私はこれまで結構もう女の子の絵を描いてきていて、それも私の中では現実位の蓄積になってきているので実生活だけというよりかは、これまで描いてきた絵画の中の世界というものに、自分の現実の生活を突き合わせている。

 この突き合わせるというのが、演劇の時に感じた、物事の配置、いろいろな出来事が1つの空間にあるゆえに、できあがる現実、の作り方と大体同じで、描いていて嘘がない、ドキドキして世界がキラキラ見えてくる。  こういう、自分の心の動きが絵を描く何よりの動機になっている。

 だけど、それってあまりに個人的じゃないかな
 絵を発表していきたいとか思っているので、発表することも考えないといけない

 そのためのヒントになるようなことがあった。
 息子が宇宙の図鑑付属のDVDを見ていた時。宇宙にはいろいろな大きさの星があって、おおいぬ座VY星というのが地球よりもはるかに大きい。大犬VY座と比べたら、地球は針の先よりも、埃よりもゴマ粒よりも全然小さい、分子よりも小さいかもしれない。見えない。
そんなちっちゃい地球の中にある日本列島の中にある神奈川県の木造住宅に住む私は、どれほどの生命体なんだ?

 微生物よりも、分子よりも原子よりも小さいような幻みたいな存在だなと思った。

 小さな地球に住む生命体Aが西暦で言う2025年と言う時代に制作と言うことをしていて、その絵には生命体Aの現実が書かれているようだ。

 現実のことを書くと、生命体Aとしての私の記録になるような気がする。現実を見つめる時、壮大な宇宙の風が私を掻き消して飛ばしていく。

 良い作品を見たとき、爽やかな風が吹いたねと私は言うことがある。私の作品に爽やかな風を吹かせるためには、嘘がないように真摯に現実に向き合っていくしかない。今はそんな風に思っているけど、確証はなく、この考えに回答が出るのは何年か先のことだと思う。

そんなわけで、今日が終わると明日が来る。日々はつながっていて、その結果として様々な作品が生まれては道筋を作っていく。明日の事はわからないし、自分が今考えていることが本当なのかもわからないけれど、今日が終わると明日が来る。その繰り返しで作品ができてきている事は間違いないのだ。


やとうはるか 2025.3.3



作家プロフィール


やとうはるか

1989年 静岡県生まれ
2015年 多摩美術大学大学院美術研究科博士前期課程絵画専攻油画研究領域 修了 現在、神奈川県在住


〔個展〕

2022
「やとうはるか個展」日和坂アート硏究舎、宮城県
「道をあるいていたら」日和坂アート硏究舎、宮城県
2013
「さわやかな壁」gallery b.TOKYO、東京都


〔グループ展〕

2025
「第6回芸術ハカセは見た "伊丹小夜ぼくのともだち"」徳島市立徳島城博物館、徳島県

2024
「KAMIYAMA ART カドリエンナーレ 2024」上野の森美術館、東京
「しがらきパプ祭り'24」カフェ&ギャラリー陶園、滋賀県
「せいめい」JITSUZAISEI、大阪府

2023
「二次元派展」大阪関西国際芸術祭、大阪府
「cross cross x x vol.1」GALERIE OVO、台北

2022
「ゆうだち」新宿眼科画廊、東京都

2018 「パープルーム大学付属ミュージアムのヘルスケア」茨城県常陸太田市郷土資料館、茨城県

2015
「PAPER DRAWINGS」ギャラリーなつか、東京都

2014
「春のカド2」ターナーギャラリー、東京都
「感情未然」新宿眼科画廊、東京都

2012
「TURNER MUSEUM vol.1」ターナーギャラリー、東京都

2011
「はっぴーまむまむのまむ様の窓から」SPACE/ANNEX、東京都



〔受賞〕
2015
福沢一郎賞
神山財団芸術支援プログラム第1期生





After today ends, tomorrow will come.

Haruka Yato

Location: AP Donou
Dates: 4/5 (Sat.),2025 - 4/28 (Mon.),2025
Open only on Saturdays, Sundays and Mondays
Hours: Thu ー Sat 11:00 - 18:00



I have an overwhelming amount of clothes, and everything is in disarray. Every piece was chosen by me for a reason at the time of purchase, and yet somehow I can’t find anything I want to wear anymore, nor can I tell what my favorites are.

Even though I feel frustrated with myself for not being able to take better care of what I already have, I also feel the urge to seek out something new—something I might be able to cherish more. And even if I were to obtain such an object, it would probably not resolve the bottomless sense of lack that prevents me from ever reaching a feeling of abundance.

But was there really a shortage to begin with?

The works of Haruka Yato appear to draw deeply on bodily movements cultivated through everyday life. Walking a dog, raising children, the gestures of farm work—these experiences shape the body, and from that embodied experience emerges a way of drawing that only someone who has lived it can achieve. Even though these movements and the act of drawing may seem entirely different, they feel connected somewhere beneath the surface.

When childcare becomes overwhelming, the palette narrows; when she regains a sense of personal time, colors suddenly proliferate. Life influences the work so directly that it feels as though both exist along the same axis, their movements inevitably linked.

In Yato’s paintings, multiple layers of time seem to overlap. Rather than capturing a single moment, the figures—often depicted as a group—each appear to inhabit their own time, while actions repeated day after day accumulate into a single scene. Her background in theater likely gives rise to this distinctive sense of temporality within the pictorial space.

I once spoke with her about the idea of “using up what is already at hand.” She uses things for a long time if they are still usable and avoids waste. Even without acquiring anything new, what already exists is enough. This attitude extends beyond objects to experiences themselves. She values what she has lived through and continues to draw upon those experiences, using them again and again.

The vague, nameless feeling of insufficiency that arises in the course of living—of something always being lacking—may find resolution through the clues offered by her work and her way of life.

Takao Kiyama


Profile


Haruka Yato

Born in 1989, Shizuoka, Japan
2015 M.F.A., Oil Painting, Painting Course, Graduate School of Fine Arts, Tama Art University
Currently based in Kanagawa, Japan

《Solo Exhibitions》
2022
Haruka Yato Solo Exhibition, Hiyorizaka Art Kenkyusha, Miyagi While Walking Along the Road, Hiyorizaka Art Kenkyusha, Miyagi

2013 Refreshing Wall, gallery b.TOKYO, Tokyo

《Group Exhibitions》
2025
The 6th “Art Hakase Has Seen: Itami Sayo – My Friend”, Tokushima Castle Museum, Tokushima
2024
KAMIYAMA ART Quadriennale 2024, The Ueno Royal Museum, Tokyo Shigaraki PAP Festival ’24, Café & Gallery To-en, Shiga Seimei, JITSUZAISEI, Osaka
2023
Two-Dimensionalist Exhibition, Osaka Kansai International Art Festival, Osaka cross cross x x vol.1, GALERIE OVO, Taipei
2022
Yu-dachi (Sudden Shower), Shinjuku Ophthalmologist Gallery, Tokyo
2018
Purpleroom University Museum of Healthcare, Hitachiota City Museum of Local History, Ibaraki
2015
PAPER DRAWINGS, Gallery Natsuka, Tokyo
2014
Spring KADO 2, TURNER GALLERY, Tokyo Before Emotion Emerges, Shinjuku Ophthalmologist Gallery, Tokyo
2012
TURNER MUSEUM vol.1, TURNER GALLERY, Tokyo
2011
From the Window of Happy Mum-Mum’s Mam-sama, SPACE/ANNEX, Tokyo

《Awards》
2015
Ichiro Fukuzawa Award Kamiyama Foundation Art Support Program, 1st Term Fellow