圧倒的他者と関わりを持とうとすれば、自分がどう見られているか気になって気になって気が狂いそうだ。なので、だんだん関係性の構築が億劫になって遠くから見ているだけで満足できるようになってしまった。相手がどんな人間か、それをグンと通り越して相手を鏡にして映った自分を知ることで相手をはかる。我ながら惨めで恥ずかしいコミュニケーションだと反省。 コミュニケーションの手法はいくつもあるだろうが、毛利洋はどうだろうか。 彼の描く人物は、失礼ながらなんだか関わると厄介そうに見える。バックグラウンドになんだか意味ありげな・・・そんな雰囲気を纏っている。毛利にこの人物たちが誰なのかと聞くと、どうやら彼の頭の中の人物であるようだ。頭の中とはいえ、それは単なる妄想ではなく、彼の過ごしてきた人生の中でささやかに触れ合った人々―「袖触れ合うも他生の縁」の「袖」も触れ合わなかったが「他生の縁」を感じさせるような人々がモチーフとなっているのだろう。 毛利は絵だけではなく、テキストを用いた表現もおこなう。彼のテキストにも少し癖が強いが妙に生々しい人物たちが登場する。もしかしたら関わらなくてもよかったような人々、例えば世界の運命を背負ったそんな主人公然とした主人公の視界に入らないような人々だ。そのような「人々」と触れ合ってゆく毛利の書くストーリーの主人公もまた、「人々」と同じ地平で生活を送っているのだろう。テキストを読む読者はこの主人公や人々に感情移入ではなく、他者を見る役割を与えられているように感じる。 ニッチな人間にハイライトが当てられる時、エンターテイメントに回収されれば見世物のようになってしまうこともある。毛利の場合、そのような意図は見えない。もはやハイライトを当ててすらいない。同じ光の中で淡く生活している風景画のような人物像が、こちらを見ているようで見ていないのだ。 機山隆生
ふと頭に浮かぶ自分にとって何者でもない人物画を描いています。 「他者」を思いながら線を引き、色を塗る。かれら(他者)をよく知りたいと思っているのか、もしくは関係すらもちたくないのかもしれない。たとえ自分にとってそういった他者ばかりだとしてもこの社会に生きている限り関係をもたないという選択はなく、一度築かれた関係を保つ行動も、後々苦手だからと距離をとる為の要領も必要になったりと、他者はややこしく、面倒くさい。そう思う時、他者にとっての自分もまた同じなのだろうと思う。そういう他者がいるから私という人間が生きている。と思えば、私という他者とも向き合える。 他者と向き合う憂いや悲しみ、喜び、ほんのちょっとのユーモアを感じてもらえたら嬉しいです。 毛利洋
毛利洋(もうりひろし) 大阪市出身 主な展示 2000年 PEPART未完成な完成(グループ展)ギャラリーden 2001年 ランドスケープ展(グループ展)ペッパーズギャラリー 2004年 毛利洋展 ギャラリーden 2014年 毛利洋展「flyaway」茶屋町画廊 2015年 毛利洋展「なんでもできるよ」茶屋町画廊 2016年 ポコラート展(公募展)アーツ千代田3331 ●Link note